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Burning Angel(バーニングエンジェル)/赤く燃える韓国
この文章は、韓国のホテルで書いている。江南という地区にあるリッツカールトンホテルにいるのだが、正直こんな高級ホテルは慣れなくてどうも落ち着かない。別にそんなに中が凄い、と言うわけではないのだが、やはり名前負けしているんだろう。
実は、ドイツに駐在するまで海外出張をしたことがなかった。これは異例なことだったらしく、その会社では、初めての海外出張時に支度金が出ていたのだが、私がそれを貰ったのは何と駐在から帰国してからの海外出張時であり、散々ドイツで出張をしていたにも拘らず、である。確かに最初の海外出張であったのは確かであるし、貰えるものは遠慮なく貰うので構わないのであるが、変な感じがしたのは事実である。
それで、と言うわけでもないのだが、当時の一般的な海外出張で多かったのがアジアであるにも関わらず、その出張に行っていなかったので私のアジアデビューは遅かった。今回滞在している韓国について言えば、初韓国が36歳の時、やはり仕事での出張であった。
正直、韓国についての事前知識は全くなく、何も準備せずに行った。通常は観光地なり食事なりを調べていくのであるが、このときはソウルに行くわけでもなく、特に観光地に行くわけでもないのが分かっていたからかもしれない。最初に入ったのが金浦空港で、降りた途端にキムチの匂いが鼻に刺してきた。実際はそれほど強い匂いではないし、大体キムチは好きなのだが、全く予想していなかったので、むしろ「ああ、韓国に来たわけだな」という気合が入った感じである。
そのまま韓国側の人の案内で色々と移動していくのであるが、夜の移動で目に付いたのが、市街地のやたら派手な色合いの広告である。原色を使ってのイルミネーション、しかも見慣れないハングル文字というのがまた結構攻撃的に目に飛び込んでくるわけである。何というか、町じゅう歌舞伎町状態というか、別にそうではないはずなのに全ての広告が風俗関連に見えてしまうこの不思議。
その後、打ち合わせで何社かの会社に行ったのだが、どうも違和感が抜けない。何だろうと思いながら、ああ、と思ったことは、会議の雰囲気が極端なのである。ゆるい会社は何か打ち合わせというよりだらだらした雑談だし、厳しい会社は全くのけんか腰でくる。入り口でも、極端な会社は、全ての記憶装置とその接続線を全て袋に入れた上で、金属探知機に通すという徹底振り。そうかと思えば、気づいたら中に入ってしまっていたといういい加減な会社もある。何か振幅が大きすぎる。人も、おとなしい人と厳しい人で極端、何か中抜けしている気がしてならない。
正直なところ、あまり歴史問題などは感じることはなかった。実は、同世代の複数の韓国人に直接、「やっぱり日本人っていうのは嫌いなのかな?」と聞いたことがある。正直に答えてくれた人の中には、「そうだねえ、やはり負けたくない、という意識はあるよね」という意見が幾つかあった。個人的な感想でいえば、それは歴史問題に端を発しているとはいえ、今ではある種、東京に対する大阪の対抗心に近いのではないか、と思う。奥底には色々な感情はあるのであろうが、結構正直な感想だと思う。
当時は仕事が地方のことが多く、そのままその地にある小さなホテルに泊まることが多かった。大体が同僚と一緒に行っていたのだが、旅慣れているのが私だけ、という状況では色々と世話をすることが多かった。最初の出張でも、空港での待ち合わせからホテルのチェックインから何から何まで、私が世話を焼いていた。そんなある日、仕事を終えてホテルに入り、ぼーっとしているといきなり電話が鳴った。同僚がいたため、また分からないことが出来たのであろう、電話を取るとフロントであった。
「明日のご予定はどうなっていますか?」
翌日は確かに帰国になっていて、朝が早かった。そこまでこんな小さなホテルで気にしているとは、中々なところだな、と感心してしまった。
「でも、明日は車はありますから、大丈夫ですよ」
「そうですか、では女の子はいかがですか?」
はあ?ってなもんである。この「女の子どうですか?」攻撃、その後泊まったソウル郊外のホテルでもあった。そのときは乗り合わせたポーターがいきなり、「可愛い女の子どうですか?」とエレベーターの中で来たのだ。正直、どの程度かわいいかは興味があったが、その後、降りた階でいきなりその最中の嬌声ががんがん聞こえてきたのはなんともばつが悪かった。
食事でも中々興味深いことが多かった。基本的に食堂などで、相当な田舎でも日本人だからと不快になることは一度もなかった。寧ろ、ハングルが分からない日本人に何とか通じさせようと一生懸命な人ばかりだったと思う。辛いものが苦にならない私などは、韓国で韓国料理以外食べた試しがない。
ある時、同僚と二人で自由時間が出来たとき、ちょっとやってみようということで、現地の人ばかりが入っているレストランに入った。が、困ったことに、個室に通された上、ハングルしかないメニュー、英語も分からない従業員ということで何を頼んでいいか全く分からなかった。
「もういいや、上から二つ頼みましょう」
ということで、指を指して注文した。かなり怪訝な顔をされたが、まあ毒は出ないだろう、ということで押し切った。そして来た食事は、真っ赤な四皿と大量の付け合せであった。付け合せについては、韓国の場合只で色々なものが付いてくる。これは非常に美味くて楽しみなのだが、問題は真っ赤な四皿である。どうも、一つの注文が二人分だったようである。が、来てしまったものは仕方がない、二人して四人分を辛さに涙を流しながら食べたのである。何が入っていたかも覚えていない、只の辛い赤だけが記憶に残っているだけである。
どうも韓国というのは、極端なものを好むのではないか。私は個人的には「やたらめったらな国」と思っている。それは決して否定的な話ではなく、寧ろ日本などは少しそのやたらめったらな極端さを学んだほうがいいのではないか。そうすれば少し面白い国になるような気がする。日本からほんの数時間で、日本に無いものがある。こんな面白いことは無いではないか。
実は、ドイツに駐在するまで海外出張をしたことがなかった。これは異例なことだったらしく、その会社では、初めての海外出張時に支度金が出ていたのだが、私がそれを貰ったのは何と駐在から帰国してからの海外出張時であり、散々ドイツで出張をしていたにも拘らず、である。確かに最初の海外出張であったのは確かであるし、貰えるものは遠慮なく貰うので構わないのであるが、変な感じがしたのは事実である。
それで、と言うわけでもないのだが、当時の一般的な海外出張で多かったのがアジアであるにも関わらず、その出張に行っていなかったので私のアジアデビューは遅かった。今回滞在している韓国について言えば、初韓国が36歳の時、やはり仕事での出張であった。
正直、韓国についての事前知識は全くなく、何も準備せずに行った。通常は観光地なり食事なりを調べていくのであるが、このときはソウルに行くわけでもなく、特に観光地に行くわけでもないのが分かっていたからかもしれない。最初に入ったのが金浦空港で、降りた途端にキムチの匂いが鼻に刺してきた。実際はそれほど強い匂いではないし、大体キムチは好きなのだが、全く予想していなかったので、むしろ「ああ、韓国に来たわけだな」という気合が入った感じである。
そのまま韓国側の人の案内で色々と移動していくのであるが、夜の移動で目に付いたのが、市街地のやたら派手な色合いの広告である。原色を使ってのイルミネーション、しかも見慣れないハングル文字というのがまた結構攻撃的に目に飛び込んでくるわけである。何というか、町じゅう歌舞伎町状態というか、別にそうではないはずなのに全ての広告が風俗関連に見えてしまうこの不思議。
その後、打ち合わせで何社かの会社に行ったのだが、どうも違和感が抜けない。何だろうと思いながら、ああ、と思ったことは、会議の雰囲気が極端なのである。ゆるい会社は何か打ち合わせというよりだらだらした雑談だし、厳しい会社は全くのけんか腰でくる。入り口でも、極端な会社は、全ての記憶装置とその接続線を全て袋に入れた上で、金属探知機に通すという徹底振り。そうかと思えば、気づいたら中に入ってしまっていたといういい加減な会社もある。何か振幅が大きすぎる。人も、おとなしい人と厳しい人で極端、何か中抜けしている気がしてならない。
正直なところ、あまり歴史問題などは感じることはなかった。実は、同世代の複数の韓国人に直接、「やっぱり日本人っていうのは嫌いなのかな?」と聞いたことがある。正直に答えてくれた人の中には、「そうだねえ、やはり負けたくない、という意識はあるよね」という意見が幾つかあった。個人的な感想でいえば、それは歴史問題に端を発しているとはいえ、今ではある種、東京に対する大阪の対抗心に近いのではないか、と思う。奥底には色々な感情はあるのであろうが、結構正直な感想だと思う。
当時は仕事が地方のことが多く、そのままその地にある小さなホテルに泊まることが多かった。大体が同僚と一緒に行っていたのだが、旅慣れているのが私だけ、という状況では色々と世話をすることが多かった。最初の出張でも、空港での待ち合わせからホテルのチェックインから何から何まで、私が世話を焼いていた。そんなある日、仕事を終えてホテルに入り、ぼーっとしているといきなり電話が鳴った。同僚がいたため、また分からないことが出来たのであろう、電話を取るとフロントであった。
「明日のご予定はどうなっていますか?」
翌日は確かに帰国になっていて、朝が早かった。そこまでこんな小さなホテルで気にしているとは、中々なところだな、と感心してしまった。
「でも、明日は車はありますから、大丈夫ですよ」
「そうですか、では女の子はいかがですか?」
はあ?ってなもんである。この「女の子どうですか?」攻撃、その後泊まったソウル郊外のホテルでもあった。そのときは乗り合わせたポーターがいきなり、「可愛い女の子どうですか?」とエレベーターの中で来たのだ。正直、どの程度かわいいかは興味があったが、その後、降りた階でいきなりその最中の嬌声ががんがん聞こえてきたのはなんともばつが悪かった。
食事でも中々興味深いことが多かった。基本的に食堂などで、相当な田舎でも日本人だからと不快になることは一度もなかった。寧ろ、ハングルが分からない日本人に何とか通じさせようと一生懸命な人ばかりだったと思う。辛いものが苦にならない私などは、韓国で韓国料理以外食べた試しがない。
ある時、同僚と二人で自由時間が出来たとき、ちょっとやってみようということで、現地の人ばかりが入っているレストランに入った。が、困ったことに、個室に通された上、ハングルしかないメニュー、英語も分からない従業員ということで何を頼んでいいか全く分からなかった。
「もういいや、上から二つ頼みましょう」
ということで、指を指して注文した。かなり怪訝な顔をされたが、まあ毒は出ないだろう、ということで押し切った。そして来た食事は、真っ赤な四皿と大量の付け合せであった。付け合せについては、韓国の場合只で色々なものが付いてくる。これは非常に美味くて楽しみなのだが、問題は真っ赤な四皿である。どうも、一つの注文が二人分だったようである。が、来てしまったものは仕方がない、二人して四人分を辛さに涙を流しながら食べたのである。何が入っていたかも覚えていない、只の辛い赤だけが記憶に残っているだけである。
どうも韓国というのは、極端なものを好むのではないか。私は個人的には「やたらめったらな国」と思っている。それは決して否定的な話ではなく、寧ろ日本などは少しそのやたらめったらな極端さを学んだほうがいいのではないか。そうすれば少し面白い国になるような気がする。日本からほんの数時間で、日本に無いものがある。こんな面白いことは無いではないか。
Road Racer(ロードレーサー)/中東で大暴走
アフリカ大陸には、行きたいと思いながら行ったことがない。サッカー好きなので、2010年のワールドカップということも有り得るが、さすがに日本からは遠すぎる。唯一、エジプトに二泊程度したことがあるが、あそこがアフリカなのか、と言われればちょっと違うのではないかと思う。行ったことがないところのことを書きようがなく、アフリカではないエジプトの話をしようと思う。
1986年に、南回りの欧州旅行におまけのように付いていたのがエジプト滞在であった。初めての旅行で欧州を回り、帰国前にエジプト航空からインド航空に乗り換えるための滞在でもあった。
最初に空港に着き、市内に行くバスの中で、添乗員が説明していたのは、「とにかくエジプトは交通事故で人をはねても保険にも入っていないので、金はタダ同然しか入らない。とにかく運転は荒いので事故に遭わないように気をつけて欲しい」ということだった。空港では軍人であろう、自動小銃を片手に警備していて、あっちに行け、という指示をその小銃でするものだから、おいおい止めてくれ、とびびったのを思い出し、「じゃああの小銃の誤射で自分が死んでも金は落ちないのか」とぼーっとした頭で思っていた。
泊まったホテルは五つ星の超高級ホテルで、ピラミッドの真正面に位置していた。ただ、ホテルの水はいきなり茶色で、しかもトイレがちょっと紙を流すと詰まってしまい、何だか外見との差が大きなところである。とはいえ、貧乏旅行でのホテルとしては、もう居心地が悪いくらいのところである。ちなみに、何ゆえこんな高級ホテルに泊まったかといえば、元々旅行代理店が取っていたホテルが暴動で攻撃され、使えなくなったための代替である。もしかすると死んでいたかも知れないのか、とこれまたぼーっと考えていた。
もう欧州でいい加減疲れていたのだが、そこは初めてのアラブ、しかもピラミッドの前とくれば、とにかく外に出てふらつこうということになるのは当然の行動である。同じ団体で移動してきた連中と、とにかく外に出ると、まあ寄ってくるわ寄ってくるわの客引きである。もうあまりにうるさいので、私が「We need no one!」と叫んで退散させたのだが、今から考えるとそこまで邪険にしなくてもよかったか、と二十年以上経って反省している。彼らは元気だろうか?まだ怪しげに客引きをしているだろうか?
ピラミッド沿いに歩くと、屋台のようなものがいくつもあり、その中の一軒で串焼きとパンを食べた。さて何の肉だったかは全く覚えていないのだが、パンの形を整えるために叩きつけている先が土の上だったので、これを食べなきゃいけないのか?とかなり覚悟を決めて食べた。が、旨かったし特に腹を壊すこともなかった。ちなみに、どうも私の体はかなり丈夫にできているようで、インドネシアで酷い下痢になった以外では、殆ど体の調子を狂わせたことがない。
その屋台があるところは少し高台なのだが、その下には民家が連なっている。あれは確か6時頃だったと思うが、少しずつその下から声が聞こえてくるのである。それは徐々に大きくなり、最後には音の塊が下から上に投げつけられる如き重なり合いになっていった。それは、どうも合唱されているコーランだったようであるが、コーランかどうかより、その湧き出す音の塊に回りを囲まれていて、有無も言わせない迫力にしばし聞き入ってしまった。内容も何も分かったものではないのだが、得体の知れない迫力というのは、こういうものなのであろう。
翌日は結局、邪険にしていた客引きを捕まえて、近くにある別のピラミッドに車で行ったが、どこの何なのかは全く持って記憶にない。団体になった学生5―6人だったと思うが、車二台に分乗して目的地に向かった。が、問題はその運転であり、市内でも160kmくらいで平気に飛ばすのである。それも、車の間を縫って走るまさにカーチェイスのような運転で、同行していた女の子の一人があまりの怖さに泣き出してしまったほどの運転である。こんな運転でどこまで行くんだ、と思いながら確か小一時間、目的の場所に到着して、観光をしたのだが、改めて思い返しても何を見たか全く記憶にない。もう二十年以上も前の話であり、覚えていないほうが当たり前なのかもしれないが、それにしても全く覚えていない。
どの程度滞在していたかは分からないが、とにかく変える時間になり、またもや暴走運転で帰ることになった。記憶が正しければ、だが確か現地ガイドも含め、分乗した二台のうち、一台には6人、もう一台には5人乗っていたと思う。
これほど荒っぽい運転をする国でも、当然のことであるが交通法規という奴があり、乗車定員は守らなければならないらしい。ところが、6人乗車というのは、間違いなく定員オーバー状態で、捕まると結構な金を取られるそうである。思い出してきたが、私が乗った車がまさにこの定員オーバー状態であった。ところが、この状態で何もなく運転していたのに、あるところでいきなり運転していた奴がもう一台の運転手と窓を開け、窓越しに話をはじめるではないか。どうも、道の先に警察が居て走る車をチェックしているらしい。「おい、何があったんだ」と聴いても「No Problem!」という連中お得意の言葉で返すだけである。と、先を見るとちょうど橋を渡ったカーブのところに交番があり、そこで確かに警官が見張っている。こいつらどうするのか?と思いきや、
やおらもう一台(こちらは定員内)がカーブのところでこちらの車の外側に追い抜きをかけるように並び、交番から見えないように隠してしまったのだ。
しかもそのカーブはそんなに緩やかではないにも拘らず、確か80KMくらいで曲がっていったと記憶している(私は後ろでメーターが見える位置にいた)。当然のことながら行きの運転で泣いていた女の子はここでもしくしく泣き出してしまったが、私は寧ろその運転と機転に感心してしまった。聞くと「あいつは弟だから大丈夫だよ」ということで、兄弟息がぴったり、というのはあまりこういう場面ではありがたくないのであるが、事実はそうである。よくよく考えると、カーブでの外からの追い抜きと定員オーバー、どちらの罪が重いのか?未だに謎である。
それにしても、彼らは何をそんなに急いでいるのであろうか?別に時間に追い立てられているわけでもないし、それであればもっと普段の生活をきびきびすればよいだろう。ところが、運転だの何かへの乗車だのになると、途端に闘争本能むき出しにして前へ前へと進んでいくのである。しかも、急に交通規則を守るくらいなら、最初から守っていれば良いのであろうに、そういうことは別らしい。少し考えてみると、むしろ普段それだけ急いだ生活をしていないがために、逆にそのような場面では必要以上に喧嘩っぽくなるのではないか。緩急というか、強弱というか、そういうものが極端に出ているのでないか、要は血の気が余っている暴走族の変形のようなものである。
しかしあのドライビングテクニックを思い出すに、彼らをレーシングドライバーにすれば、結構いい線いくのではないだろうか?できればまだそんな運転がまかり通っているのか、確認するためだけにでもエジプトに行ってみたい気がするのは、かなりの阿呆な考えであろうか。
1986年に、南回りの欧州旅行におまけのように付いていたのがエジプト滞在であった。初めての旅行で欧州を回り、帰国前にエジプト航空からインド航空に乗り換えるための滞在でもあった。
最初に空港に着き、市内に行くバスの中で、添乗員が説明していたのは、「とにかくエジプトは交通事故で人をはねても保険にも入っていないので、金はタダ同然しか入らない。とにかく運転は荒いので事故に遭わないように気をつけて欲しい」ということだった。空港では軍人であろう、自動小銃を片手に警備していて、あっちに行け、という指示をその小銃でするものだから、おいおい止めてくれ、とびびったのを思い出し、「じゃああの小銃の誤射で自分が死んでも金は落ちないのか」とぼーっとした頭で思っていた。
泊まったホテルは五つ星の超高級ホテルで、ピラミッドの真正面に位置していた。ただ、ホテルの水はいきなり茶色で、しかもトイレがちょっと紙を流すと詰まってしまい、何だか外見との差が大きなところである。とはいえ、貧乏旅行でのホテルとしては、もう居心地が悪いくらいのところである。ちなみに、何ゆえこんな高級ホテルに泊まったかといえば、元々旅行代理店が取っていたホテルが暴動で攻撃され、使えなくなったための代替である。もしかすると死んでいたかも知れないのか、とこれまたぼーっと考えていた。
もう欧州でいい加減疲れていたのだが、そこは初めてのアラブ、しかもピラミッドの前とくれば、とにかく外に出てふらつこうということになるのは当然の行動である。同じ団体で移動してきた連中と、とにかく外に出ると、まあ寄ってくるわ寄ってくるわの客引きである。もうあまりにうるさいので、私が「We need no one!」と叫んで退散させたのだが、今から考えるとそこまで邪険にしなくてもよかったか、と二十年以上経って反省している。彼らは元気だろうか?まだ怪しげに客引きをしているだろうか?
ピラミッド沿いに歩くと、屋台のようなものがいくつもあり、その中の一軒で串焼きとパンを食べた。さて何の肉だったかは全く覚えていないのだが、パンの形を整えるために叩きつけている先が土の上だったので、これを食べなきゃいけないのか?とかなり覚悟を決めて食べた。が、旨かったし特に腹を壊すこともなかった。ちなみに、どうも私の体はかなり丈夫にできているようで、インドネシアで酷い下痢になった以外では、殆ど体の調子を狂わせたことがない。
その屋台があるところは少し高台なのだが、その下には民家が連なっている。あれは確か6時頃だったと思うが、少しずつその下から声が聞こえてくるのである。それは徐々に大きくなり、最後には音の塊が下から上に投げつけられる如き重なり合いになっていった。それは、どうも合唱されているコーランだったようであるが、コーランかどうかより、その湧き出す音の塊に回りを囲まれていて、有無も言わせない迫力にしばし聞き入ってしまった。内容も何も分かったものではないのだが、得体の知れない迫力というのは、こういうものなのであろう。
翌日は結局、邪険にしていた客引きを捕まえて、近くにある別のピラミッドに車で行ったが、どこの何なのかは全く持って記憶にない。団体になった学生5―6人だったと思うが、車二台に分乗して目的地に向かった。が、問題はその運転であり、市内でも160kmくらいで平気に飛ばすのである。それも、車の間を縫って走るまさにカーチェイスのような運転で、同行していた女の子の一人があまりの怖さに泣き出してしまったほどの運転である。こんな運転でどこまで行くんだ、と思いながら確か小一時間、目的の場所に到着して、観光をしたのだが、改めて思い返しても何を見たか全く記憶にない。もう二十年以上も前の話であり、覚えていないほうが当たり前なのかもしれないが、それにしても全く覚えていない。
どの程度滞在していたかは分からないが、とにかく変える時間になり、またもや暴走運転で帰ることになった。記憶が正しければ、だが確か現地ガイドも含め、分乗した二台のうち、一台には6人、もう一台には5人乗っていたと思う。
これほど荒っぽい運転をする国でも、当然のことであるが交通法規という奴があり、乗車定員は守らなければならないらしい。ところが、6人乗車というのは、間違いなく定員オーバー状態で、捕まると結構な金を取られるそうである。思い出してきたが、私が乗った車がまさにこの定員オーバー状態であった。ところが、この状態で何もなく運転していたのに、あるところでいきなり運転していた奴がもう一台の運転手と窓を開け、窓越しに話をはじめるではないか。どうも、道の先に警察が居て走る車をチェックしているらしい。「おい、何があったんだ」と聴いても「No Problem!」という連中お得意の言葉で返すだけである。と、先を見るとちょうど橋を渡ったカーブのところに交番があり、そこで確かに警官が見張っている。こいつらどうするのか?と思いきや、
やおらもう一台(こちらは定員内)がカーブのところでこちらの車の外側に追い抜きをかけるように並び、交番から見えないように隠してしまったのだ。
しかもそのカーブはそんなに緩やかではないにも拘らず、確か80KMくらいで曲がっていったと記憶している(私は後ろでメーターが見える位置にいた)。当然のことながら行きの運転で泣いていた女の子はここでもしくしく泣き出してしまったが、私は寧ろその運転と機転に感心してしまった。聞くと「あいつは弟だから大丈夫だよ」ということで、兄弟息がぴったり、というのはあまりこういう場面ではありがたくないのであるが、事実はそうである。よくよく考えると、カーブでの外からの追い抜きと定員オーバー、どちらの罪が重いのか?未だに謎である。
それにしても、彼らは何をそんなに急いでいるのであろうか?別に時間に追い立てられているわけでもないし、それであればもっと普段の生活をきびきびすればよいだろう。ところが、運転だの何かへの乗車だのになると、途端に闘争本能むき出しにして前へ前へと進んでいくのである。しかも、急に交通規則を守るくらいなら、最初から守っていれば良いのであろうに、そういうことは別らしい。少し考えてみると、むしろ普段それだけ急いだ生活をしていないがために、逆にそのような場面では必要以上に喧嘩っぽくなるのではないか。緩急というか、強弱というか、そういうものが極端に出ているのでないか、要は血の気が余っている暴走族の変形のようなものである。
しかしあのドライビングテクニックを思い出すに、彼らをレーシングドライバーにすれば、結構いい線いくのではないだろうか?できればまだそんな運転がまかり通っているのか、確認するためだけにでもエジプトに行ってみたい気がするのは、かなりの阿呆な考えであろうか。
Wild Frontier(ワイルドフロンティア)/国境
国境の街の風情は、何か独特なものがある。もしかするとそういう我々の側の意識に過ぎないのかもしれないので、もし目隠しでもされて、「ここが国境の町ですよ」と言われて実は国の真ん中であった、というようなゲームをされれば、全く国境の町なのかどうかは分からない、ということは有り得る。というか、恐らくそういう結果に落ち着くと思うが、旅などというのは自分の意識が半分くらい占めているわけで、それもまた良きかな、である。
一番最初に国境を意識した街は、恐らくベルギーのリエージュだと思う。別に街の中に入ったわけではない。欧州での生活を始めて、まず車で国境を越えたのがこのリエージュだった。何を見たのか?それは何のことはない、交通標識なのだが、リエージュという表記が三ヶ国語で表記されていたのだ。今でこそ別に何も驚くことはないのであるが、当時は、「さすが、こういうことが欧州では起こるわけだな」と妙に感心した覚えがある。特に、日本に住んでいるとこの国境という概念は殆ど意識されないわけで、その後、妙に国境を意識するようになった。
当時はまだEUができる前で、ドイツからベルギーであったり、フランスからスペインであったりにはパスポートコントロールというのが存在していた。特に車で回ることが多かったため、いつも検問があり、その検問所の回りには両替商が軒を並べる、というのがどの国境でもお馴染みの光景である。国境を越えるということは少しかしこまった感のある儀式だったのである。オーストリアとドイツなど、山道を走っていると複数回に渡って国境超えがあり、数回パスポートを見せることもあった。今では、それらの検問所は撤去されたか、廃墟のようになっているのであるが。
この国境を越えるということでは、別の経験をしたことがある。夏真っ盛りに、アメリカの南端の町サンディエゴに滞在し、そのまま日帰りでメキシコに行ったときのことである。特にそのメキシコに目的があるわけではなく、単に「メキシコに行った」という証拠がほしかったのは否定しない。
さて、いざメキシコへ、とガイドブックを見ると、「10ドルを支払い、往復をバスで移動し国境を越えること」と書いてある。そうすると、かなり立派なバスターミナルがあって、そこから国を渡ることになるわけである。まあ、確かにメキシコからの不法入国が問題になっていることもあるからだろう。
サンディエゴ中心から国境の町まではトラムを使って大体一時間というところか。海沿いを天気の良い日に移動して到着となった。ところが、サンディエゴの国境駅であるサンイシドロに着くと、矢印で「MEXICO」を指す看板が至る所にある。バスターミナルらしきものもないし、地図を見ても十分歩ける距離であるし、と、歩いてメキシコに向かった。すると確かに大した時間も掛からずメキシコ国境に着き、単に回転扉を回ればそこは既にメキシコだった。なんと言うか、多摩川のこちらと向こうで東京と神奈川、というような気楽さである。
メキシコの町ティファナは面白いもので、たった徒歩の距離しか離れていないにもかかわらず、やはりアメリカの乾き方とは違う埃っぽい乾き方をしていた。当然英語は問題なく使えるし、処方箋が要らず安い薬を買いに、かなりの人がアメリカ側から入るそうだ。街にはやたら薬屋が目立つ。
メキシコに入ることだけが目的だったわけで、長居は無用とばかり、数時間滞在してさてアメリカ側へ、と、来た道を戻っていくと様子がおかしい。確かに矢印でUSAと書かれたところに向かっているのだが、何故か入国した国境の場所ではないところに歩いているのである。はて、道を間違えたかと思ったが、どうも皆そちらの方向なので間違いはないようだ。と、高速道路に掛かる陸橋の上から見えたのが、
山ほどのメキシコ人の列
であった。考えてみれば当たり前であるが、メキシコに入国するのは、まあ観光客か物好き連中であり、逆にアメリカに入国するのは問題になっている通り、多くの密入国者を含んだ連中なわけである。やたら厳しくなってもおかしくはない。
さて、悔しいがここでどうしようもないのでその列について待つも、中々列が先に続かない。と、そのとき並行して走っている高速道路の路側から、メキシコ人が、
「おまえら、十ドル払うんならこのミニバンに乗せてやるよ。パスポートコントロールが早くなるよ」
と、勧誘が行なわれているではないか。しかも見ると税関の職員である。ある意味、さすがメキシコであるが、何か怒りが沸いてきたのである。税関職員がやるべきことはそこじゃないだろう、そこで小金を稼ごうとするその根性が気に入らないのである。そこは日本男児の意地ではないが、この列で絶対に税関を通ってやる、という気になるのは単なる頑固者か、それともここまで並ばされたための意地か。とにもかくにも結局は炎天下の税関に並び、一時間弱かけてやっとの思いで再度国境を越えたのである。よくよく回りを見れば、ティファナの街にいたはずの日本人観光客も、あれだけいたはずのアメリカ人観光客もおらず、家族で荷物を抱えているメキシコ人ばかりに、呆けた顔をした日本人である私がいただけというのが現実である。それに気が付いたのが、もう列も終わりになるころであるが。
元々の「10ドルで国境超え」というのは、往復で最初に国境を越えるバスを予約しておくということらしい。「らしい」というのは、その後この件は無かったことにして何らフォローをしていないからであるが、もしこの行程を考えている方がいれば熟考されたし、ということである。
では、こんなことがあってどうだったか、といえば、サンディエゴにしてもメキシコ超えにしても、全く否定的な感情はない。寧ろ、何だか馬鹿馬鹿しくも楽しい経験だったということしか覚えておらず、こんなことなくすっと通っていける国境のほうに物足りなさを感じるくらいである。まあ機関銃を持って警護しているようなところはさすがに嫌ではあるが、この程度の小さなバカなことは経験しておいても損はない、と思える経験である。何しろ、かつて大陸に日本領があった時代は別にして、現代の日本ではまったくといっていいほど経験できないのがこの国境越えであり、もしかすると海外で一番経験として新鮮な経験として心に刻まれることになるかもしれない。しかも、歩いて国境を越えるなどという経験は、国境越えの中でも貴重な経験に入ると思う。
思えば贅沢なものである。国境が無くなるというのはある意味すばらしいことであり、昔ジョンレノンが歌った「イマジン」の一節である「国がないということを想像してごらんよ」というように、国境の緊張緩和はある種の夢だったわけである。なのにその緊張が残っていた時を懐かしむというのは、国を渡るのに命が掛かっている、例えばパレスチナの人や北朝鮮の人から見れば考えられない贅沢であり、その考えそのものが憎悪の対象ですらあるかもしれない。「平和ボケ」といわれても仕方ないことである。それでも、「国を超える」という実感があるところには、何か猥雑で、それでいて少し厳しい雰囲気が流れていることが、何か子供の頃にわくわくした台風のように、期待感を持たせるところがあるのである。
一番最初に国境を意識した街は、恐らくベルギーのリエージュだと思う。別に街の中に入ったわけではない。欧州での生活を始めて、まず車で国境を越えたのがこのリエージュだった。何を見たのか?それは何のことはない、交通標識なのだが、リエージュという表記が三ヶ国語で表記されていたのだ。今でこそ別に何も驚くことはないのであるが、当時は、「さすが、こういうことが欧州では起こるわけだな」と妙に感心した覚えがある。特に、日本に住んでいるとこの国境という概念は殆ど意識されないわけで、その後、妙に国境を意識するようになった。
当時はまだEUができる前で、ドイツからベルギーであったり、フランスからスペインであったりにはパスポートコントロールというのが存在していた。特に車で回ることが多かったため、いつも検問があり、その検問所の回りには両替商が軒を並べる、というのがどの国境でもお馴染みの光景である。国境を越えるということは少しかしこまった感のある儀式だったのである。オーストリアとドイツなど、山道を走っていると複数回に渡って国境超えがあり、数回パスポートを見せることもあった。今では、それらの検問所は撤去されたか、廃墟のようになっているのであるが。
この国境を越えるということでは、別の経験をしたことがある。夏真っ盛りに、アメリカの南端の町サンディエゴに滞在し、そのまま日帰りでメキシコに行ったときのことである。特にそのメキシコに目的があるわけではなく、単に「メキシコに行った」という証拠がほしかったのは否定しない。
さて、いざメキシコへ、とガイドブックを見ると、「10ドルを支払い、往復をバスで移動し国境を越えること」と書いてある。そうすると、かなり立派なバスターミナルがあって、そこから国を渡ることになるわけである。まあ、確かにメキシコからの不法入国が問題になっていることもあるからだろう。
サンディエゴ中心から国境の町まではトラムを使って大体一時間というところか。海沿いを天気の良い日に移動して到着となった。ところが、サンディエゴの国境駅であるサンイシドロに着くと、矢印で「MEXICO」を指す看板が至る所にある。バスターミナルらしきものもないし、地図を見ても十分歩ける距離であるし、と、歩いてメキシコに向かった。すると確かに大した時間も掛からずメキシコ国境に着き、単に回転扉を回ればそこは既にメキシコだった。なんと言うか、多摩川のこちらと向こうで東京と神奈川、というような気楽さである。
メキシコの町ティファナは面白いもので、たった徒歩の距離しか離れていないにもかかわらず、やはりアメリカの乾き方とは違う埃っぽい乾き方をしていた。当然英語は問題なく使えるし、処方箋が要らず安い薬を買いに、かなりの人がアメリカ側から入るそうだ。街にはやたら薬屋が目立つ。
メキシコに入ることだけが目的だったわけで、長居は無用とばかり、数時間滞在してさてアメリカ側へ、と、来た道を戻っていくと様子がおかしい。確かに矢印でUSAと書かれたところに向かっているのだが、何故か入国した国境の場所ではないところに歩いているのである。はて、道を間違えたかと思ったが、どうも皆そちらの方向なので間違いはないようだ。と、高速道路に掛かる陸橋の上から見えたのが、
山ほどのメキシコ人の列
であった。考えてみれば当たり前であるが、メキシコに入国するのは、まあ観光客か物好き連中であり、逆にアメリカに入国するのは問題になっている通り、多くの密入国者を含んだ連中なわけである。やたら厳しくなってもおかしくはない。
さて、悔しいがここでどうしようもないのでその列について待つも、中々列が先に続かない。と、そのとき並行して走っている高速道路の路側から、メキシコ人が、
「おまえら、十ドル払うんならこのミニバンに乗せてやるよ。パスポートコントロールが早くなるよ」
と、勧誘が行なわれているではないか。しかも見ると税関の職員である。ある意味、さすがメキシコであるが、何か怒りが沸いてきたのである。税関職員がやるべきことはそこじゃないだろう、そこで小金を稼ごうとするその根性が気に入らないのである。そこは日本男児の意地ではないが、この列で絶対に税関を通ってやる、という気になるのは単なる頑固者か、それともここまで並ばされたための意地か。とにもかくにも結局は炎天下の税関に並び、一時間弱かけてやっとの思いで再度国境を越えたのである。よくよく回りを見れば、ティファナの街にいたはずの日本人観光客も、あれだけいたはずのアメリカ人観光客もおらず、家族で荷物を抱えているメキシコ人ばかりに、呆けた顔をした日本人である私がいただけというのが現実である。それに気が付いたのが、もう列も終わりになるころであるが。
元々の「10ドルで国境超え」というのは、往復で最初に国境を越えるバスを予約しておくということらしい。「らしい」というのは、その後この件は無かったことにして何らフォローをしていないからであるが、もしこの行程を考えている方がいれば熟考されたし、ということである。
では、こんなことがあってどうだったか、といえば、サンディエゴにしてもメキシコ超えにしても、全く否定的な感情はない。寧ろ、何だか馬鹿馬鹿しくも楽しい経験だったということしか覚えておらず、こんなことなくすっと通っていける国境のほうに物足りなさを感じるくらいである。まあ機関銃を持って警護しているようなところはさすがに嫌ではあるが、この程度の小さなバカなことは経験しておいても損はない、と思える経験である。何しろ、かつて大陸に日本領があった時代は別にして、現代の日本ではまったくといっていいほど経験できないのがこの国境越えであり、もしかすると海外で一番経験として新鮮な経験として心に刻まれることになるかもしれない。しかも、歩いて国境を越えるなどという経験は、国境越えの中でも貴重な経験に入ると思う。
思えば贅沢なものである。国境が無くなるというのはある意味すばらしいことであり、昔ジョンレノンが歌った「イマジン」の一節である「国がないということを想像してごらんよ」というように、国境の緊張緩和はある種の夢だったわけである。なのにその緊張が残っていた時を懐かしむというのは、国を渡るのに命が掛かっている、例えばパレスチナの人や北朝鮮の人から見れば考えられない贅沢であり、その考えそのものが憎悪の対象ですらあるかもしれない。「平和ボケ」といわれても仕方ないことである。それでも、「国を超える」という実感があるところには、何か猥雑で、それでいて少し厳しい雰囲気が流れていることが、何か子供の頃にわくわくした台風のように、期待感を持たせるところがあるのである。
Living on the Edge(リヴィングオンジエッジ)/戦いながら生きる
シンガポールという国というか、街が好きである。というと、結構な数の人が、「あんなにつまらない街のどこがいいんだ?」という反応を示す。曰く、人工的、物価が高い、観光はない、きれいなだけ、などなど。それらはいちいちごもっともな感想であり、何ら反論はできないことである。それでもなお、私はシンガポールという場所に抗い難い魅力を感じ、惹かれるのである。
日本からは飛行機で約八時間、時差はないが季節によっては日本との温度差があるこの国に到着するのは、深夜になることが多い。日本を夕方出発するフライトが大体にして安く取りやすいということがある。さらには夜行便もあるのであるが、これはさすがにエコノミーで移動すると時差ぼけ以上に厳しい疲れを体に残すので、できるだけ避けている。最後にシンガポールに行ったときには、A380というクジラのような飛行機のまだ二回目か三回目かのフライトで乗ることができた。外はでかく、乗るときも上下二階建てなのだが、中は大して変わらないのにはがっくりした。スチュワーデスが美人なのが変わらないのはうれしい変化のなさなのであるが。
実は初めてシンガポールに行ったのはインドネシアへ行く途中のトランジットであった。当時どこに泊まったか、どうやって移動したかなどが全く思い出せない。ただ思い出すのは、暑い中で買ったドリアンのアイスクリームがまさに生ごみの臭いで、とても食えたものではなかったことくらいである。ちなみにドリアンの弁護を受け売りですると、ドリアンをはじめて食べる時にはできるだけ高級なものからでないと匂いに負けること、最悪なのは加工品から食べることだそうである。そうすると、私は最悪の選択で果物の王様を嫌ってしまったことになる。
その最初の滞在から10年以上経って、仕事がシンガポールにできたのを幸いと、何かと理由を付けてはシンガポールに出張していた。五回は行ったであろうか、そのどの時も何か楽しい気持ちで過ごすことができているのだ。
旅には三要素というものがあって、「食べる」「買う」「見る」というものだと私は定義している。日本などはその物価の高さを除けばかなりこの三要素がバランスしている国だと思う。イタリアなどもそうだ。逆にアメリカなどは、その三要素はかなり貧弱ではないかと思っている。国土が大きすぎるからというのもあろうが、本当の大都市に行けば行ったで。歴史のない国の宿命で、「見る」という部分に不足が出る。そりゃグランドキャニオンに行けば色々「見る」ことはできるだろうが、その他の二要素はあきらめざるを得ない。
シンガポールについていえば、元々は「見る」以外の二要素で魅力を作ってきた国である。しかし、国内での買い物とそれほど差が無くなった今日、わざわざ旅行してまでの「買う」という魅力は薄れ、元々小さな人口国家であり、「見る」ものは無いといって良いだろう。「食べる」に関しては、私見でいえば世界でも有数に楽しめる国であると思う。まず、様々な種類の食事が楽しめる。元々主流の中華系からの中華料理、その次に多いマレー系のマレー料理、また、インド料理やアラブ料理といったエスニック系はもとより、ヨーロッパ系の料理や日本料理も豊富である。さらに、鯛系の魚の頭をカレールウに煮込んだフィッシュヘッドカレーや、豚肉を煮込んだバクテーなどのアレンジ料理もある。その上、ホーカーズという大きなフードコートがいくつもあり、そこに行けばこういった食事を安く(500円以下で)あげることも可能である。
私の場合、定番ではあるがチリソースにでかい蟹を煮込んだチリクラブが一番のお気に入りである。同じ蟹を胡椒で炒めたペッパークラブも美味しいのだが、このチリクラブ、その残りのソースを甘く味付けた揚げパンで食べると、これがまたなんとも癖になる味なのである。この料理、私の知っている限りではシンガポールの料理だと思う。ちなみに最近東京でも、シンガポール観光局と共同でシンガポール料理の店を出しているが、やはり目玉はチリクラブである。
シーフードついでに受け売りをすれば、シンガポールには漁港が無いのにもかかわらずシーフードレストランが多く、またうまい。これは、異民族で忌諱する食品が違い、それが大半が肉類であるため、それらを折衷する形でシーフードに逃げたために発達した、ということらしい。
シンガポールという国は、料理があらわすように、ごった煮の人種で構成されている。やはり主流を占める中華系が国の主要部分を押さえているが、マレー系、インド系、アラブ系が主であるが、その他混血まで合わせると相当な数の人種が入り混じってできている国である。かつてのユーゴスラビアがそうであるが、建国の父であるリークワンユーのある種豪腕政治で、この国が保たれているのは否定しようがない。実際、かなり危ない意見を出してくるのがリークワンユーで、「馬鹿は子供を生むな」とでも言わんばかりの政策や、学歴偏重の教育など、ちょっと知ると相当に過激なことを推し進めている。
そんな政治であるが、私にとってのシンガポールの魅力、それはそういう危うい均衡の中で起こっている様々な混合という現象に尽きる。空港で入国を待っている間、パスポート審査の上に注意書きが電光掲示板に流れるのだが、四ヶ国語が使用されている。また、アラブ街、インド街、中華街とある程度街に区別がある。しかし、その中が排他的に分かれているかというとそうでもなくて、インド街の真ん中にある市場では平気で肉が中華系の手で売られているし、中華街の排他性ならば、むしろサンフランシスコの方が強い気がする。そこにある排除と融合、分離と共存、相反するものがひとつの中で何とか存在しているということが、やはり独特の色合いと魅力を出していると思っている。
ただ、そんな混合文化を主には持っていない我が日本人が、そこに放り込まれたらどうだろうか?駐在員や学生としてでなく、完全な一生活者としてやっていくことを想像したらどうだろうか?
私の友人家族がシンガポールで生活している。彼らは安定していたであろう日本の生活を捨て、文字通り何にも頼らず家族で生活している。自分自身のことを考えても、そのような行動に出る決断をするというのはどれほど強靭な精神が必要か、想像も付かない。確かにもっと過酷な状況で徒手空拳に生活している人々はいるであろう。一般的に見れば、例えば新田次郎の「アラスカ物語」にある、明治時代にアラスカへ永住したフランク安田のような人より、わが友人の場合、環境としてずっと優しいのは明白だ。しかし、問題はその環境の厳しさの度合いではなく、決めた個々人の決断の厳しさによるのであり、私はその決断の重さに軽重はないと確信している。
シンガポールが優しい国なのか、厳しい国なのかを、高々合計数週間の滞在しかしていない私が論ずることはできない。ただそこで、頼るものもなく戦っている知己がいる、ぎりぎりで生きている友がいる、その事実が更に彼らが選んだ国を好きになっているのである。彼らが好きになったのであれば、その彼らの友人である私がその国を好きになったってよいのではないか。少しサポーターのような気持ちでシンガポールを見る今日この頃である。
日本からは飛行機で約八時間、時差はないが季節によっては日本との温度差があるこの国に到着するのは、深夜になることが多い。日本を夕方出発するフライトが大体にして安く取りやすいということがある。さらには夜行便もあるのであるが、これはさすがにエコノミーで移動すると時差ぼけ以上に厳しい疲れを体に残すので、できるだけ避けている。最後にシンガポールに行ったときには、A380というクジラのような飛行機のまだ二回目か三回目かのフライトで乗ることができた。外はでかく、乗るときも上下二階建てなのだが、中は大して変わらないのにはがっくりした。スチュワーデスが美人なのが変わらないのはうれしい変化のなさなのであるが。
実は初めてシンガポールに行ったのはインドネシアへ行く途中のトランジットであった。当時どこに泊まったか、どうやって移動したかなどが全く思い出せない。ただ思い出すのは、暑い中で買ったドリアンのアイスクリームがまさに生ごみの臭いで、とても食えたものではなかったことくらいである。ちなみにドリアンの弁護を受け売りですると、ドリアンをはじめて食べる時にはできるだけ高級なものからでないと匂いに負けること、最悪なのは加工品から食べることだそうである。そうすると、私は最悪の選択で果物の王様を嫌ってしまったことになる。
その最初の滞在から10年以上経って、仕事がシンガポールにできたのを幸いと、何かと理由を付けてはシンガポールに出張していた。五回は行ったであろうか、そのどの時も何か楽しい気持ちで過ごすことができているのだ。
旅には三要素というものがあって、「食べる」「買う」「見る」というものだと私は定義している。日本などはその物価の高さを除けばかなりこの三要素がバランスしている国だと思う。イタリアなどもそうだ。逆にアメリカなどは、その三要素はかなり貧弱ではないかと思っている。国土が大きすぎるからというのもあろうが、本当の大都市に行けば行ったで。歴史のない国の宿命で、「見る」という部分に不足が出る。そりゃグランドキャニオンに行けば色々「見る」ことはできるだろうが、その他の二要素はあきらめざるを得ない。
シンガポールについていえば、元々は「見る」以外の二要素で魅力を作ってきた国である。しかし、国内での買い物とそれほど差が無くなった今日、わざわざ旅行してまでの「買う」という魅力は薄れ、元々小さな人口国家であり、「見る」ものは無いといって良いだろう。「食べる」に関しては、私見でいえば世界でも有数に楽しめる国であると思う。まず、様々な種類の食事が楽しめる。元々主流の中華系からの中華料理、その次に多いマレー系のマレー料理、また、インド料理やアラブ料理といったエスニック系はもとより、ヨーロッパ系の料理や日本料理も豊富である。さらに、鯛系の魚の頭をカレールウに煮込んだフィッシュヘッドカレーや、豚肉を煮込んだバクテーなどのアレンジ料理もある。その上、ホーカーズという大きなフードコートがいくつもあり、そこに行けばこういった食事を安く(500円以下で)あげることも可能である。
私の場合、定番ではあるがチリソースにでかい蟹を煮込んだチリクラブが一番のお気に入りである。同じ蟹を胡椒で炒めたペッパークラブも美味しいのだが、このチリクラブ、その残りのソースを甘く味付けた揚げパンで食べると、これがまたなんとも癖になる味なのである。この料理、私の知っている限りではシンガポールの料理だと思う。ちなみに最近東京でも、シンガポール観光局と共同でシンガポール料理の店を出しているが、やはり目玉はチリクラブである。
シーフードついでに受け売りをすれば、シンガポールには漁港が無いのにもかかわらずシーフードレストランが多く、またうまい。これは、異民族で忌諱する食品が違い、それが大半が肉類であるため、それらを折衷する形でシーフードに逃げたために発達した、ということらしい。
シンガポールという国は、料理があらわすように、ごった煮の人種で構成されている。やはり主流を占める中華系が国の主要部分を押さえているが、マレー系、インド系、アラブ系が主であるが、その他混血まで合わせると相当な数の人種が入り混じってできている国である。かつてのユーゴスラビアがそうであるが、建国の父であるリークワンユーのある種豪腕政治で、この国が保たれているのは否定しようがない。実際、かなり危ない意見を出してくるのがリークワンユーで、「馬鹿は子供を生むな」とでも言わんばかりの政策や、学歴偏重の教育など、ちょっと知ると相当に過激なことを推し進めている。
そんな政治であるが、私にとってのシンガポールの魅力、それはそういう危うい均衡の中で起こっている様々な混合という現象に尽きる。空港で入国を待っている間、パスポート審査の上に注意書きが電光掲示板に流れるのだが、四ヶ国語が使用されている。また、アラブ街、インド街、中華街とある程度街に区別がある。しかし、その中が排他的に分かれているかというとそうでもなくて、インド街の真ん中にある市場では平気で肉が中華系の手で売られているし、中華街の排他性ならば、むしろサンフランシスコの方が強い気がする。そこにある排除と融合、分離と共存、相反するものがひとつの中で何とか存在しているということが、やはり独特の色合いと魅力を出していると思っている。
ただ、そんな混合文化を主には持っていない我が日本人が、そこに放り込まれたらどうだろうか?駐在員や学生としてでなく、完全な一生活者としてやっていくことを想像したらどうだろうか?
私の友人家族がシンガポールで生活している。彼らは安定していたであろう日本の生活を捨て、文字通り何にも頼らず家族で生活している。自分自身のことを考えても、そのような行動に出る決断をするというのはどれほど強靭な精神が必要か、想像も付かない。確かにもっと過酷な状況で徒手空拳に生活している人々はいるであろう。一般的に見れば、例えば新田次郎の「アラスカ物語」にある、明治時代にアラスカへ永住したフランク安田のような人より、わが友人の場合、環境としてずっと優しいのは明白だ。しかし、問題はその環境の厳しさの度合いではなく、決めた個々人の決断の厳しさによるのであり、私はその決断の重さに軽重はないと確信している。
シンガポールが優しい国なのか、厳しい国なのかを、高々合計数週間の滞在しかしていない私が論ずることはできない。ただそこで、頼るものもなく戦っている知己がいる、ぎりぎりで生きている友がいる、その事実が更に彼らが選んだ国を好きになっているのである。彼らが好きになったのであれば、その彼らの友人である私がその国を好きになったってよいのではないか。少しサポーターのような気持ちでシンガポールを見る今日この頃である。
Under the same Sun(アンダーザセイムサン)/夕日が美しければ
今では少し時間がずれているのだが、以前良くアメリカに行っていた時は、多くのフライトが夕方に日本を発ち、夜間を太平洋上で費やした後、時差の関係で同じ日付の朝到着する、というものであり、私も大体午後五時頃のフライトを使うことが多かった。
このフライトでは、離陸後間もなく地平線に沈む夕日に遭遇することになる。特に夏、中々沈みきらない夕日がどんどん地平線に光を広げていき、それが徐々に弱く、細くなりついには漆黒が訪れる。見ているこちらも、「もう少し、もう少し」と沈みきるのを惜しみながら見ることがしばしばであった。
夕日が好きである。
その夕日の先では、当たり前であるが朝日になっているところがあり、日の終わりがあるのと同時にどこかで日の始まりが存在しているわけである。
何故夕日が好きなのか、それは、夕日には寂しい中年男の背中を見るような寂寥感を感じるからである。それはうらぶれた、というのとは少し違う、一日の重荷全てを背負ってなおそれを純化するためにどこかに運んでいる、そのような使命を進行させているように思える。ましてや、飛行機からの夕日というのは、何もさえぎることがないまさにさらけ出しの状態である。そのさらけ出された夕日を見ると、自分自身が何かその夕日に純化されたい、と望んでしまうのである。そう、同じ夕日なのであるが、飛行機からの夕日は、そのさらけ出された姿ゆえに、何か自分もさらけだせるように思えるのである。
そして、色々なものをきれいにしてのち、また半日後には純粋な姿を見せるのが朝日なのだ。
そうやって日々再生を繰り返せればどれほど良い人生だろう、と思うが、残念ながら人は過去からの色々を澱のように溜め込んで中々浄化することができない。澱を捨てるには澱に絡んでへばり付いた色々を心から取らなければならない。取ればきれいになるが、無理に取ると痛いかさぶたのように、へばり付いたものを取るときには痛みが伴う。そこに逃げ込みの場を作り、痛さから目をそらしながら、いつまでたっても心を一新できないでいるのが人というものだ。
だから夕日を見るといつも思う。この夕日が美しいと感じる間はまだ大丈夫だ、と。それは、心の痛みをどこかで感じていられることであるから、としか答えられず、大丈夫の先に何があるかなどは分からない。それでも、まだ大丈夫だ、と心で繰り返し、まだ自分を捨てることはない、と、色々なものを引き摺りつつも確信するのである。
このフライトでは、離陸後間もなく地平線に沈む夕日に遭遇することになる。特に夏、中々沈みきらない夕日がどんどん地平線に光を広げていき、それが徐々に弱く、細くなりついには漆黒が訪れる。見ているこちらも、「もう少し、もう少し」と沈みきるのを惜しみながら見ることがしばしばであった。
夕日が好きである。
その夕日の先では、当たり前であるが朝日になっているところがあり、日の終わりがあるのと同時にどこかで日の始まりが存在しているわけである。
何故夕日が好きなのか、それは、夕日には寂しい中年男の背中を見るような寂寥感を感じるからである。それはうらぶれた、というのとは少し違う、一日の重荷全てを背負ってなおそれを純化するためにどこかに運んでいる、そのような使命を進行させているように思える。ましてや、飛行機からの夕日というのは、何もさえぎることがないまさにさらけ出しの状態である。そのさらけ出された夕日を見ると、自分自身が何かその夕日に純化されたい、と望んでしまうのである。そう、同じ夕日なのであるが、飛行機からの夕日は、そのさらけ出された姿ゆえに、何か自分もさらけだせるように思えるのである。
そして、色々なものをきれいにしてのち、また半日後には純粋な姿を見せるのが朝日なのだ。
そうやって日々再生を繰り返せればどれほど良い人生だろう、と思うが、残念ながら人は過去からの色々を澱のように溜め込んで中々浄化することができない。澱を捨てるには澱に絡んでへばり付いた色々を心から取らなければならない。取ればきれいになるが、無理に取ると痛いかさぶたのように、へばり付いたものを取るときには痛みが伴う。そこに逃げ込みの場を作り、痛さから目をそらしながら、いつまでたっても心を一新できないでいるのが人というものだ。
だから夕日を見るといつも思う。この夕日が美しいと感じる間はまだ大丈夫だ、と。それは、心の痛みをどこかで感じていられることであるから、としか答えられず、大丈夫の先に何があるかなどは分からない。それでも、まだ大丈夫だ、と心で繰り返し、まだ自分を捨てることはない、と、色々なものを引き摺りつつも確信するのである。




